(ニュースから)米の「素人」の手で新憲法 GHQは「脅し」で受け入れ迫った

 昭和21(1946)年2月1日、毎日新聞が一大スクープを放った。前年暮れから松本烝治国務相を委員長とする政府の委員会が検討してきた新憲法草案をすっぱ抜いたのである。

 それによると新憲法は(1)天皇の統治権総攬(そうらん)(一手に握る)の維持(2)人権、自由の保障の拡大-など松本が先に示した「4原則」に基づいた「抑制的」な改正案となっていた。むろん「戦争放棄条項」など含まれていない。

 あわてた政府は楢橋渡内閣書記官長が「委員会案とは異なる」と否定する声明を出す。だがGHQ(連合国軍総司令部)の反応は早かった。2日後の3日、マッカーサー最高司令官が民政局長のコートニー・ホイットニー准将に「日本政府を指導するため」3点を含む憲法草案の起草を命じた。

 3点とはおおよそ(1)天皇は国家元首の地位にあり皇位は世襲される(2)日本は紛争解決の手段としての戦争だけでなく、自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する(3)日本の封建制度は廃止される-で後にマッカーサー・ノートと言われる。

 つまり「戦争放棄」を盛り込もうとしない日本政府の作業に見切りをつけ、自ら作った憲法を押しつけようと決断したのだ。

 ホイットニー局長は翌4日、次長のチャールス・ケーディス大佐ら局員25人による起草委員会をつくり、1週間で草案を作成する方針を打ち出した。25人の中に弁護士資格を持つ者が4人いたが、憲法の専門家はゼロで、日本の伝統と政治体制についての知識のある者は3人だけだった。大半は軍人、軍属、それに秘書やタイピストという素人集団である。

 それでも2月10日には草案ができあがり、マッカーサーの承認を得た上で13日、ホイットニーらが麻布市兵衛町にあった外相官邸に日本側の吉田茂外相や松本らを訪ねた。

 ホイットニーは日本の松本委員会案は受け入れられないとした上でGHQ草案を示す。マッカーサー・ノートの中の「自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する」はさすがに削除されていたが、戦争放棄条項は明記されていた。一見した吉田らは暗く厳しい表情になったという。

 ホイットニーに同行したケーディスら米側幕僚が残した記録文書によれば、吉田らが米国案を検討している間、庭に出たホイットニーは吉田の側近だった白洲次郎にこう語った。

 「われわれは戸外に出て、原子力エネルギーの暖を取っているところです」

 この文書を独自に訳した江藤淳氏は、『一九四六年憲法-その拘束』の中で「米側に三発目の原爆攻撃を行い得る能力があることを誇示して、心理的圧力をかけようとしたことはあまりにも明らかだ」と述べている。さらに吉田らに対し「これを受け入れるなら天皇も安泰になる」とも迫った。

 こうした露骨ともいえる「脅し」により幣原喜重郎内閣は3月6日、GHQ草案を日本政府独自の「憲法改正草案要綱」として発表せざるを得なかった。そして帝国議会での議決を経て11月3日、日本国憲法として公布、翌22年5月3日施行される。

 マッカーサーは後に自らの『回想』で「戦争放棄条項は自分ではなく幣原の提案だった」旨のことを書いている。だが江藤氏は「そうであれば、吉田らがGHQ案にショックを受けたはずがない」などの理由で、これを真っ向否定する。占領者は占領地の現行法律を尊重することを求めたハーグ陸戦法規違反と言われるのを恐れたための「言い訳」だろう。

 事実は明らかに「押しつけ」であり、特に「戦争放棄」は日本への「懲罰」の意味が強かった。それだけにこの憲法は、日本が独立を回復するまでのものとの認識は日米双方にあったはずだ。

 だがその後70年近く、日本の為政者は何度もあった憲法改正の機会を逃し続けてきた。制定のいきさつを直視するなら、それは決して許されることではない。(皿木喜久)

憲法の議会での審議

 憲法草案の審議は建前上オープンに行われ、マッカーサーも「日本国民の自由な意思で採択されるべきだ」との声明を出した。しかし実際に審議にあたる衆院の憲法改正小委員会(芦田均委員長)は秘密会とされ、速記録も非公開となった。しかも審議内容は逐一GHQ側に報告された。つまり国民には事実上非公開で、米側の監視のもとに審議された。

 このため修正の自由はほとんどなく、戦争放棄の第9条第2項に「前項の目的を達成するため」を加筆、戦力保持に含みを持たせた「芦田修正」などごくわずかにとどまった。

【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(74)米の「素人」の手で新憲法 GHQは「脅し」で受け入れ迫った+(1/3ページ) – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140907/art14090715350003-n1.htm