(ニュースから)「愛国心」はけしからん? 道徳の教科化めぐり…
【解答乱麻】「愛国心」はけしからん? 道徳の教科化めぐり…(1/3ページ) – 産経ニュース
http://www.sankei.com/life/news/150314/lif1503140033-n1.html
道徳の教科化をめぐって文部科学省は、去る2月に「学習指導要領(案)」を公表し、広くパブリックコメントを求めた。これに合わせて複数の新聞、テレビは教科化への危惧を前面に押し出した報道を行い、インターネットでは、パブリックコメントに教科化反対を促す呼びかけが繰り返された。
特に小学校低学年で「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつこと」が加えられたことに激しい批判が向けられた。低学年から「愛国心」を教えるのはけしからん、ということのようだ。
しかし「学習指導要領(案)」は、「愛国心」と同時に、「他国の人々や文化に親しむこと」も新たに加えている。「愛国心」と国際理解・人類愛を構造的に示しているわけだが、私の知る限りどの報道もこの点には触れていない。「愛国心」を否定することが目的である、いつもの「ためにする批判」であることは明らかである。
戦後日本では、「愛国心」は常に「タブー視」されてきた。なかでも教育界では顕著であり、国家を否定することが、「いつか来た道」へ進まない「真理」であるかのような言説が一般的であった。
もちろん、国民が政府のあり方や政策を批判するということは、健全な国家としては当然である。坂本多加雄が述べたように、本来「愛国心」とは、決して自国の正しさや美点のみを強調することではなく、「日本の過去に生きた人々の様々な事業や苦難や幸福や不幸や、さらには、それに処した精神の構えへの『共感』のなかから生まれる」はずのものである。
つまり、日本の過去の偉業や失敗も含めて丸ごと「共感」し、受け止めることから「愛国心」は醸成されるのであり、立派な歴史を持つから愛するのでも、正しさや美点があるから愛するわけでもない、ということである。
「京都学派四天王」の一人と称せられた高坂正顕もまた、「日本を愛するに値する国にする」という意味での向上的愛国心が重要であると述べた。昭和41年に高坂が起草してまとめた中央教育審議会答申(別記)「期待される人間像」は、「愛国心」を次のように明快に定義している。「国家は世界において最も有機的であり、強力な集団である。個人の幸福も安全も国家によるところがきわめて大きい。世界人類の発展に寄与する道も国家を通じて開かれているのが普通である。国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である。正しい愛国心は人類愛に通ずる。真の愛国心とは、自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり、その努力である」
戦後日本では、国家と個人との関係を社会契約的に捉え、国家が尊重するに値しなければ否定するという風潮があった。これに対して、坂本や高坂のいうのは、国家が外在的なものでなく、個人の内的な精神と繋(つな)がる運命共同体的な存在であり、これを内在化することの必要性である。これは、日本の歴史と文化への「共感」であると同時に、「日本を愛するに値する国にする」という覚悟でもある。
日本の歴史と文化への「共感」を前提に、自分が国家や社会と繋がっているという意識と実感がなければ、「規範意識」や「生命への畏敬」は育たない。国家と「愛国心」への感情的な否定と忌避は「国家及び社会の形成者」(教育基本法)を育成するという公教育の使命と責任の放棄である。
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